愛崎麗子の哲学思考

棺桶に入ったときに、後悔のない人生を。

棺桶に入ったときに、後悔のない人生を。

朝日が燦燦と降り注いでいるらしい。同居人が言っていた。私にはそれが感じられない。いや、感じようと思わないというほうが正しいのかもしれない。どういうことだろう、私には朝日が見えない。いつも暗い。暗い場所は落ちつく。いや、落ち着くのではない、明るい場所に出るのが怖いから、暗い場所を落ち着くと思い込ませている、そんな思考のもとにうまれた幻想、それが「暗い場所は落ち着く」なのである。そうか、私は布団の中にいるから。そう、布団の中にすっぽり顔まで埋めてしまっているから、そりゃあ、朝日など感じられる訳もないのだ。

 

ここ二日、私には朝も昼も夜もないようなものだ。なのに朝は嫌いだ。なぜなら、人々が一斉に、動き出す。さて、一日の始まりであると、まるで何かにとりつかれたかのように、まるでその先にはとてつもないポジティブなものが待ち受けているかのように、活動を開始する。それは社会の刷り込みであろう。毎日同じ日々を過ごしても、それは社会の歯車に過ぎないのだ。

 

何が楽しい。

 

思考停止人間どもが、他人の掲げた地位や名誉や賞を目指して周囲に目もくれず猛進しているではないか。そのためには、奴らは時に人を蹴落とすことをもいとわない。その先に何があるのであろうか。

 

夢を持つことが正とされる世の中にははなはだ疑問だ。しかし私は、疑問を抱くその前に「夢を持つことが正」とされる、いわば宗教にも似た思考回路に支配されてしまった。何かを目指していないと、幸福が味わえないのである。その過程にあるスリルがなければ、生きた心地がしないのである。

 

なぜ私がここで、こんなにも内向的な事柄をつらつらと並べているのかって。それは、「夢がないことの辛さ」を、どこにぶつけて良いものか、わからないからある。

 

「夢がないと、生きられない」

 

なんと不幸なことであろう。年齢とともに、その「夢」とやらは、「夢」から、「目標(ここでいう目標とは、一般論でいう達成可能であろうもの)に変わっていく。しかし、一般論でいう「目標」に、私はわくわくすることができない。不幸なのか。幸福なのか。それすら分からない。

 

私はこれまで、「何か、無理そうなものを目指すこと」にこそ、幸福を感じられると信じていた。実際にそうであった。大学受験が人生で一番楽しかったように思う。誰もが私では行けないと思っていた大学を第一志望に掲げ、半年間で偏差値をあげるという、その挑戦に、身震いがするほどわくわくした。そして、辛いなど一度も感じることなく、ただただ朝起きた瞬間から寝る直前まで勉強をした。あれほど幸せな時間はなかったと思う。

 

それまでは、ただ漠然と、中高生時代を過ごしていた。とても辛かったように思う。私は「何者かにならなければ」という気持ちが常にあった。こんな普通の中学生では何者にもなれない、こんな普通の高校生では何者にもなれない。そんな焦りばかりが募り、しかしその焦りも本物ではなかったのであろう。ただただ日常に飲み込まれる日々。学校をやめる勇気もなくただただ惰性の中で日々を過ごしていた。そして大学受験の季節がやってきた。別に大学にいきたかったわけではない。「馬鹿にされてたまるか。私は普段勉強していないだけでお前らより賢い」そんな気持ちで挑んだ気がする。

 

なんにしろ、あのときはちょっとばかりの夢があった。大学にいって、ちやほやされて、何かの拍子にチャンスが巡ってきて、希有な人生を送ることができるのではないかって。

 

けれど今、希有にはほど遠い人生を送っている。まだ20代前半。いくらでも巻き返しはきくとわかっている。けれどプライドが邪魔をして、私は本当にしたいことがわからない。本当にしたいことを仕事にできるひとなんて、ほとんどいないよ、などという一般論はうけつけていない。とういうか、受け付けるつもりがなくても、流されてしまいそうだから、聞きたくもない。私はあなたたちとは違う。そういつも言い聞かせながら、私はベッドに横たわる。ああ、明日からもまた、日常が始まる。私は明日こそは朝日を浴びて、ラッシュの人々の波に、とけ込んでみようではないか。

 

 

棺桶に入ったときに、後悔のない人生を。